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2020/03/25

Wuhan肺炎/ChinaVirusにためされる(きになる世界)

個人の習慣というのは,情報と「普通な教育」では,概ね「変えられない」,,
教育が〜く的にいえば「行動の変容」は無い,といえるのか。
この立場でいうのもアレだが,そう思う。

あえてイヤミ〜にいうと,「行動に,『知』は関係無い」とも。
とはいえ,この『知』を作り提供するのが我らがお仕事でもあり,『知』と『方法』は提供し続ける。『結果』は自ずと出る・出す・出させるが,肝心の『考察』と『展望』は,なかなか深部からは変えられず,まぁ,待つしかない(何を待つのかは問題・・・😌,最後は体裁整えるまでお手伝いして,ほっとくしかない😒・・・ある程度で,もう立ち入らない),,。

マイ日常に脱線しすぎだが,,,現在の【ChinaVirus感染〜・・・】のデータを眺めていると,これまでの日本「耐久力」はホンモノ(文化(習慣)・文明(医療含む)として説明できるもの)かもしれない。

今後,この「耐久力」を突き破るモノが起こるか・否か・それ何か,(個人的には興味深い)。

付録;期待する「行動の変容」を提案した場合の反応で,いつも同じ事は,相手が「変容」しないための「理由を見つけてくる」,こと。
今回の事態でも,色々「知」を提供してみて,例えば「手洗いX秒」(こちらはそうはいっていないけど)について,「長すぎる」「もっと簡単にできないのか」「もっと説得できる・されるイイ話しはないのか」といった,「できにない」ための理由をだす。

身近なオケ練でいえば,端的にいうと「もう中止できない」「なんとかやるしかない」。こういった場面に対してできる事は,個人として「そういった場面には,近づかないと判断し・思いやり,静に立ち去る」。

こういった,個人の判断(この積み上げできるのが日本社会なのかもしれない。吉田兼好「徒然草」のさまざまな節にも,それに通じるモノがあったようなぁ(勝手解釈かも,,今日本は,総「都」,むしろ東京・都市部に田舎があるのかも,)。。。

<実践できない何かの壁>
スタンダードプレコーションの実践でもよくある場面(アベコベ論議),,,思うに,究極論ならトポロジー(立体配置とかetc,3次元認識)であったり,日常なら「手順」・・・もっとぶっちゃけ「料理」,,言い難いけど,「あなたのトイレ処理方法」ってことですかね(もう具体的にいいません🤫😜),,要するにそれができない人いる,,,<=あきらめ・・・だから自己防衛する。

自己防衛は結果的に周囲によい影響をもたらす。マイ職場では,せっせと私が自分のために出入りするたびにドアノブを消毒用アルコールで消毒・消毒液付けたまま触る,私がペーパー取り替える(他の人しませんね),,,ちなみに,セッケン(長鎖カルボン酸ナトリウム塩)は私が強制撤去し,消毒用アルコールポンプまたは硫酸ナトリウム系洗剤に置換(今回にかかわらず実は事情で昨年の10月から実施し,今はジャストフィット)。


あとで整理😅

スペインかぜのパンデミック、中国起源説とその教訓 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/031300172/

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