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2014/09/24

つれづれオケ(つかれ編)

演奏していて,悪質性疲労症候群に陥るとき,,



大編成オケの弦楽器は,プルト,つまりアウトサイド+インサイド(表・裏)をペアーにして組むのが一般的。

プルトは,音楽演奏の際の,アンサンブル最小単位ともいえる。
隣同士の音楽的呼吸は,音楽的センスが研澄まされればされるほど,強く感じる訳だ。

金属疲労の増進は,振動や伸び縮みといった物理的運動によるストレスの結果である。
ヒト感覚の進化には,生物学的ストレスが極めに重要であり,それを受けとめ進化へと発展させる機能を,ヒトは大脳に備えているに違いない。

音楽演奏では,音楽的せめぎ合いとして発生するストレスが存在する。ストレスが上手く機能すれば,再現芸術の中で,瞬時に新しい音,音場が発生すると考えられる。しかし,大抵の場合は,「演奏の不都合」として現れ,創造性に寄与しない。

インスツルメンツの操作,つまり演奏の物理的演奏・奏法において,運動状態のストレスは何も新しいモノを産みださない。

自然界の理解に,極自然に用いられるエレガントな理論,つまり科学をつかって音楽を理解できる奏者は,あまり出会わないものである。

おおよそ,観念的,,つまるところ,好きか・嫌いか,,,
でもよく考えたら,その好きは,何故好きがあるはずなのだが,それを説明しようとしないのが現実だ。 説明できないことに共感はないだろう。 

多くのオケ練の場合は,説明を言葉,つまり知識に頼る場合がある。
さて,それは,音楽,芸術だろうか。
究極的な音楽の説明は,「こう演奏できないか」という演奏見本だが,多くはその手本を示すことができないか,その手本の本質を聞いていない・きこえていない・見ていない。

演奏説明における弦楽器・打楽器と管楽器の外形的な違いは,奏法が見えるか否かである。特に弦楽器は,音楽を奏法によって可視化できる。もっと精密にいえば,音楽をつくり奏でるための物理運動を直接見せることができる。

多くの場合は,その見方がわからない,物理現象を理解できない,物理法則を知らないである。もう一つの決定的不知は,生理解剖学を知らないことだろう。つまり,ヒトの運動機能を知らずに,精神論だけで語り・説明するのである。

オケ内で,音楽を全て見える「運動」にするパートがある。それはコンダクターである。
多くのアマオケ指揮者は,語りが好きであるが,音楽的に,つまり物理運動的に意味があるまたは説得力を持つ説明場面が相当少ない。無駄な比喩言葉が踊る始末だったりする。

多くは,自分が知った,音楽に付随する知識のお披露目,その知識によって演奏者を魅了しようとする試みを行ってくる。そんなコンダクターの指揮パートに,「今『音』にしたことを,全て図形で表すとどうなる?」と問いかけたくなるときがある。たいていの場合,図形にできない事を,「語る」で補っているのかもしれない。
しかし,仮によい図形を繰り出しても,その図形を読み取れない場合が多くある。原因は,マエストロ側7割,3割演奏者側の図形の見方・感じ方の不知といった割合での,音楽不足である。


そんなこんなを受けとめながら演奏するのが,オケ練である。
解釈して,付き合ってみて,,結局,ここまでか,あぁそうなるか,えっどうしてそうなる,なんでそうなるかなぁ〜,,,などなど,つかれのもとである。

踏み込んで言えば,「我慢」につかれるようだ。
再現芸術には,なかなか到達しないかもしれない,,がしかし,試すチャンスでもある,,と思いつつ,いつあきらめるかということをはらんでいる。


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