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2014/12/29

オケなオフ日和(141228Colr演奏会編)

カラーフィルハーモニーオケで演奏会@杉並公会堂
線状雲が気になる,冬の関東の空



音楽:推敲中
ロマン派な古典,ブラームスシンフォニ〜3,4とうプログラム。
ライブBrahmsを見つめ直す良いきっかけにはなったようだ。

演奏側で,演奏そのものに対して,意外にも肯定的な意見が多かったのは,不思議だった。おいら的には,これまで弾いてきたプラームスでは,合奏感で最低レベル。音楽的な煮詰まりが不十分と感じているが,それは無意識に新しいブラームの合奏音楽を求めているから感じているのか,はたまた,他の奏者と求める音楽スコープが異なってしまったのか,,いやいや本当にオケが低レベルなのか,,。

特に十分でないものの1つに,弦楽器の一体感つまり合奏レベルまたは合奏フォーカスのズレがあるだろう。そのレベルなら,このオケでなら2回位の練習で到達するのでは,と思うよな感覚に苛まれて練習を経過していた。事実,2回目くらいの練習合奏の時にそう思ったレベルから脱していない気がした。その当時は,これで積み上げて行ったらとてつもないことが起こるという予感・期待があったが,それに反してともいえるかも。まだまだ,弦としてまとまるには時間がかかる新しいオケともいえるが,,社会・会社の仕組み同様,信頼と許容と寛容が高レベルに高まらないとダメなモノはダメだ,,それが弦だなぁ,。なぜなら,同じ楽譜を,複数人で弾くんだから,合奏力が全てなんだから。

そのための技術が,弦には必要だ。つまり,その合奏力。
合奏力を構成・形成するモノには,個人で弾けるを前提に,瞬発的に棒・他人と合わせるための力と同時発生的な音楽の減衰力が必要だと考えられる。 つまり,ポンと瞬間に50人が合う力,瞬時かつ同時に音が無くなろうとする演奏力だ。

特に減衰力は,音楽的信頼にも通じる。自己演奏に陶酔すれば多くの場合は,自分だけ演奏になりがちだ。つまり,音楽が観れない(聞こえない),合わせられない,,,重ね合わせ,,など思いつかないのだろう。

常に重ね合わせ,共鳴,つまり合奏を思考する者からすれば,水と油どころではない,全く一緒に弾く意味が無いということになる。これが問題。

もう一つの十分じゃない点は,オケ力の低下につながっている。
指揮,図形を見て,音楽化できない事だ。
いくら良い図形,画期的な図形,アイディア,,が来ても,何も反応できないことになる。多くのオケに共通するが,図形の問題が,マエストロとオケ,双方の問題だ。いずれにしても,カラーオケのブレイクスルーは,ここにあるだろう。図形に忠実に音楽化できるか否か,,図形の音がそのまま出るか,である。練習からそれができれば,本番図形にも垣間見られた,真のライブの醍醐味を音楽化するオケへと変容できるか,,否かかな。

オカルト的に表現する者の言葉を借りれば,『相性』とかいうだろう。
しかし,音楽は科学の側面あると認識すれば,解決は見出せるが,オカルト的には無理である。音楽の全ては物理の法則に従っている,,ソレを理解していれば,音楽達人の経験やコメント,身体化や体現化されているのもが自分にとっても具体化される。

たとえば,弦弾きにとっての,テイクバック,フォロースルー,・・・全ては運動である。つまり,古典運動の法則で全て説明され,法則に従っている。まぁ,多くの,自分だけ・自分なり演奏では,無駄な予備運動を加えたり,陶酔運動でぶれたりと,,音楽的または演奏的に効果無い運動をしている。人によっては過ぎてるを通り越して,それしか動いていないと思える場合もある。

とわいえ,人間は精神によって制御されている唯一の意志制御の動物と言われているので,精神にフィードバックさせるための運動は,全く意味が無いわけでは無いと思われる。しかし,それが合奏という集団運動に投影してみたとき,,無意味だろう。たぶん。

いずれにしても,運動に必然性が無ければ,無駄になり,音楽をロスすることになる。Heifetzの演奏を見たとき,演奏運動と奏でられる自由な音楽に落差があると思った。それは間違いで,運動は必要最大限そのものってことだと,あとで気づいた。

音楽は,個人演奏と思いがちだが,全ては「相互作用」に通じるはず。物理的にも,文字通り,共鳴,共振,,,である。

達人は「響かせる」という説明や教えの言葉を使うが,この中には受動的な自然共鳴の他に,能動的な「相互作用」も当然含まれるはず。相互とは,マエストロvs演奏者,演奏者vs演奏者,オケvs観衆・・・,この事実や認識は音楽の教え・教育に少し足りないところとなのかもしれない。


また思い出したら,メモする。

番外:
ガット弦とスチール弦について,Cb仲間うちで盛り上がっていた。
物質が違うし,モノとしての構成もちがうから,倍音成分の各強度が違うのかも知れないことは想像に難しくない。最近「倍音」を知りたいと思い,iPhoneアプリで音スペクトル可視化するモノを探した。ホールで試そうと思ったが,やはりスケジュール的に無理であった。今後の研究に価値をみいだそうか。マイライフでは,スペクトルといえば共鳴吸収を観測するが,音は重ね合わせで増感的に考えるところが,根本的に違ってオモロイところと思うので,もっと理論立てて理解したいモノだ。



「弘法筆を選ばす」ってな言葉の神髄は,たぶん『弘法は,その筆の限界を試す』が正しいのだろう。楽器や弓の使いに通じるだろう。

発信器である楽器は,そのモノとしての特性でほとんど音色(倍音の加重平均または総和)やらが決定する。材料・構造特性で当然異なる,,つまり固有振動をもつだろう。
発信器の一部である弓によって音色が変わるのは,弓(弓の背)からも発信されているからに違いないと結論づけられる(おいらは)。

マイ師匠と,よなよな師匠の音楽室で弓選び,複数の弓の聞き比べをしたことを思い出す。

弓の構造が違えば,当然共鳴・発信特性違うので音色も変わる,物理的にも『がてん』ゆくところ。物質や構造を物理的・数値的理詰めの作製は,例えばピラストのOriginalへの回帰や,コカコーラのチェリー味撤回に似ていて,我々の感覚に必ずしもフィットしない事例もある。人の感覚器としての,外界情報を検出するディテクターは,本当に複雑で,それを統合する脳がすげぇって事だろう。モノの善し悪しは,人は雑味も合わせて「イイ!」って感じることだろ。シンセサイザーでオケ音を作った人が,音楽家にコメントを求めつつ試行錯誤した結果,音をずらす,,つまり,電子楽譜の通りじゃないようにずらして見たら,フィットした,ってな事例に通じる。

いずれにしても,その音発信器の可変領域の限界に対して,最大限の変化を与えること,その結果,音の成分強度を変える事ができるという技,それが「弘法の筆」に相当するだろう,,,楽器の限界を試すことができるということだし,楽器の限界以上の事はできないということにもなるかも。

さてはて,マイ師匠ともよく議論したが,「楽器が良い先生だ」ということ。弘法は筆の限界を試すが,,多くの場合,筆から我々が試されているということだということ。つまり,材料としてのモノを我らが音楽に使えるか,ということ。そして,自分にとって良い楽器とは,,という事へと話しは発展するもの。多くは,楽器が自分を変えてくれるという方向ばかり議論される。「楽器が良い先生だ」という視点からは,間違っていないが,楽器の限界を試すのは,自分の努力でしかないので,楽器を替えれば上手くなると勘違いを産みだす。


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演奏会後は,2014打ち上げwithカリ〜


 おいらは,2種類をたいらげ,年末にお腹パンパン!!


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