妙な道路の混みが,,,。
結局この間に1.2時間。。。。
ということで,結局15分遅れで到着。。。
モーニングフィルさんで練習@江東区総合区民センターレクホール
雨男が仁王立ち。。。やな予感・雰囲気。
Mahler, Gustav (1860 - 1911) : Symphony No. 7 in E minor ("Song of the Night")
音楽:・・・餓鬼な動きと音出しに,とうとうムカッ!!! 久々に,合奏しながら「それぇっ,早いぃ!!」「せめてTOPに合わせてッ」と叫ぶ。文字通り堪忍袋切れる,,,まったく,音を楽しむっ,ではない。「合奏」;アンサンブル,これ楽しめないほど虚しいものなし,考えを巡らすのも虚しい。・・・と,文言にすればするほど自分を貶めるので,,自戒を込めて,そして管のみなさんのためにも,次回からは黙って良い音だけを聴こうぅとするしかない。
さて合奏では図形的に迷うところが多々ありで,やはり3拍子の一つ振り図形,,基本は円運動,角速度を直感的にみるはずだが,そこが上手くみえていない(見せら(魅せられ)れていない)のだろうと思う。図形を見る方も,作る方も,おっきな課題だ,,,3拍子などんなとこでも曲でも。
とはいえ,管楽器が次第に時間軸にも音楽的な集合点にも収束し始めている,,これはさすがである。マラ7はモザイクかつ多動な構造,,単純に合わせるじゃすまない難しさに満ちているんだけれども,モザイクがハマリだすと,とてもオモシロイのである。休憩中にチョイとマエストロ金山先生ともお話ししたが,Mahlerの音楽構成は,マイ説の分裂ではなく,多動症的でサバン的同時多発音楽,,それを後で整理してるんだと金山先生,,なるほどと思った。古典やロマン派音楽的な,縦構造だの音楽的な流れだけでは無く,突発的な発生・出現的なことも想像しないと,,,時間差も発生するマルチタスク的なのかな。
さて,仁王の問題点を反面教師にするとそれなりに参考になる。
問題が発生するパターンは大きく二つである。一つは,図形を見ない,見ても合わせられない,つまりどこで音出せば良いかの調整ができない,,である。(これは,多くのアマオケの場面ででくわす。)この結果は,当然だがTOPにも合わせられないし,ザッツを周りに波及させることもできないとなる。テイクバックも硬いし,フォロースルーも意味不明な(これはアマチュア的弾き切りフォームでよくあるが・・・Cbに多く見られるのは,同じ楽器としてこっぱずかしい)弓上げ踊りとなり,,変なバレエでも踊るのかと思わんばかり。
もう一つは,譜面ずらの定型パターンを,さらっと勝手なテンポで「弾き回す」,,である。経験すればシュールな動きでありテンポである。これがパート内アンサンブルを引きずるようにことごとく破壊することになる。要するに,正しくはタッタッタッタッターと解像度良くきこえるはずのとこが,グチャグチャグチャ〜ときこえることになる。(BeethovenやMozartは絶対に弾けない,,2管で一緒に居なくてよかったこ。)
一人の力でそうならしめるのは,側鳴りな爆音(これは周りが思っているほど爆音ではなく,ただの側鳴り,,,硬いフォームからは決してのびのあるとんでゆる豊かな音はでない)の由縁であるが,Cbパートとして聞こえるってことは,おまえもその一味として思われるCbの一員としては迷惑千万である。これを今回は,1楽章だけでも十数カ所も繰り返し犯行におよぶわけだから,ただでさえ数えもタイミングも大変なマラ7では,たまったもんじゃ無い。
これを打ち消す方法は,隣弾き前回のブル8で少し試した。それを感づいたか,今回さっとおいらから遠ざかったのには笑えた。 まぁ,おかげでおいらからどやされたわけだが,どやした方が最も効果的で,グチャグチャグチャ〜がピタッと止まった。 つまり,やればできるのである。裏を返せばあえてやっていないというある意味の核心犯である証となる。これは音楽的な善意のかけらも無い音楽的なツミビトである。たぶん音楽的善意を感じられないのだと思うが。。。これは残念なことでもある。
幸い,それ以外のCb弾きは,自分とちょっと音楽的価値,アプローチ,解釈が異なっても,今の今をより良くしたいという音楽的善意に満ちて,それを他と分かち合おうとする。それがうるさかろうが,変だろうが,もちろん完全同意だろうが,合わせれば必ずアンサンブルになるのである。これが,合奏の極上の楽しみだ。(これが図形ともフィットすれば,超極上である)
マイマスター的な発想ならば,「高みの音楽をわからせる(ことがきっとできるはずだ),感じさせうる」ということなのだが,,,アンサンブルで合わせるの究極は,合えば合うほど音が溶け込んで自分の音が無くなるようにきこえるでもあったりする。きっとこれがイヤなのだろう。山で一人で生きてきた,サイヤ人のような状態かも。サーカスや動物園的には楽しいかも知れないが,,,。
そういえば思い出した,学生の頃某C大学にクラブ活動のようにほとんど演奏会参加していたわけだが,定期演奏会ではマイマスターとプルトを組ませてもらうのが常で,最高の実践レッスンというわけだ。この時弾きフォームを盗むように・コピーする様に弾いたものだ。まさに音楽の外形的なストールである・・・なんとも贅沢である。 それはさてこき,ある定期演奏会の練習場面で,某K大学から来ていたいわゆるトラくん(名物くんだったらしい)をマイマスターが烈火の如く叱ったのだった。要するに,勝手に出て弾く全く合わせるをしない傍若無人弾きをしていたのだ。おいらは,自分にめいっぱいであったので,そこまでひどいとは思わなかったが。。それより,しきりに気にしている様子に自分が何か悪いことをしているのかと,戦々恐々であったことを覚えている。 我流にかまけてすき勝手にするは,オケの基本的作法に合わないのである。弓を合わせる努力はなぜみんなするのか,,アマチュアでは希であるが演奏フォームを合わせる事も基本である。また,TOP以上のことをすることは必要ない。よく比喩的に語られるのは「TOPが間違ったら,それに合わせるのがパート内の仕事」である。要するに,音楽的にチャイルディッシュなのである。これは,他人に流儀を押しつけるのに似ているが,,オケ・TOPは図形に従ってみる・・パートメンバーはTOPに従いもり立てる・・insideはoutsideに従ってみる,,である,これがオケヒエラルキーの鉄則だ。反対方向から眺めれば,「合わせられるように〜する」となるが,これができなければ,ヒエラリキーの上流ポイントに居ても無駄である。これを理解せずして,オケ音楽はできまい。
Yo-Yo Maの変化について,数年前自ら出演したドキュメンタリーで本人が語っていたのを思い出す。「人のために,楽器を奏で,弾きたい」との語りであった。確かに若い頃の演奏スタイルは,観たら忘れられないほどのいっちゃってる顔であった。 五嶋 みどり女史は,弾くだけにあらず人を育てることにも心血を注いでいる。だれかのタメのそんな音楽を考えたいモノだ。
いずれにしても,今回の“ムカッ”は,オケ音楽の基本を再度言葉にしてみる機会となったかなぁ。変わらない人がほとんどだから,何とか穏やかにスル〜できる様にしなければ。つかれて,こころの粋の部分があらわになって敏感に触れてしまうことになると事が自らの修行の足りない様をあらわしてるのかも。より精進して,「ハイ弾けました」とならないよいになりたいものだ。指がまわって駆け抜ける演奏程価値がない。完全に弾けずとも,音楽的プロセスを楽しみ,音楽で会話できる仲間が増えればよいのだが・・・,。
弓は,自由発想でぎりぎりでもよいですがね。 まぁでも,音楽的に煮詰まれば,弓も決まるんですが。いずれにしても,合わせてこそ,合奏ですねぇ〜^
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